最近はずっと暗くなってから帰宅していたため、久しぶりの夕暮れ空を目にしたら悲しさと虚しさでやるせなくなった。
20年くらい「季節を感じられる心のゆとりは持っていたい」とさまざまな場所で発しているが、そのゆとりすら持てていなかった日々は何処へ消えていってしまったのだろう。
おそらく土から顔を出した青い草にも気づかず、あの人の顔も思い出せなくなるのだ。
数年前、本当に好きな人の顔は思い出せないと言う文章を書いた気がする。楽しい時間をともに過ごし、その余韻で心が満たされると相手の顔はぼんやりとしか思い出せなくなる。顔よりも時間と空気と手触りが鮮烈に残り、それだけで十分になってしまうのだ。今はすぐに写真を撮ったりするのかもしれないが、あの相手の顔が思い出せそうで思い出せずに考え続ける時間も尊かった。
確かにそこに存在していた身近な相手の顔が一番思い出せないことに笑いそうになるが、近すぎると見えないのだとおもう。
見えなすぎて、近いひとへの敬意が薄れ、多くの失敗を繰り返すのかもしれない。
私が私を嫌うとき、誰かにはかばってもらいたい。私が存在していることを肯定してもらいたい。他人に何かを委ねたり、期待することはできるだけ止めているけれど、時に全てを委ねたくなる。
私が抱えている重たい荷物を置き去りにして、軽やかに舞っていたいと思ってしまう。現実は重たい荷物を背負ったまま、ぎこちなく足を動かしているだけに過ぎないが、その姿を笑うひとからは離れていたい。
今度はあなたを誘うから一緒に舞って下さい。